昭和四十九年七月六日 朝の御理解


御理解 第五十八節 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」


 ま、これは、「どういうことを言われようが、どういう場合であろうが」ということも言えると思います。
 他人に乞食とか、泥棒とか、馬鹿と言われてもですよということもですけれども、どういう場合でもということ、どういう場合であっても神様が見てござるのだから、しっかりと信心の帯をしなければならないということです。
 これはね、そういう時にしっかり信心の帯をさして貰う焦点といった様なものが、例えて言うと、前の五十七節で「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」とおっしゃる。もう本当に、神を杖につけばこんなにも楽じゃということを体験を頂くこの上ないチャンスです。そういう時に。
 どうでしょうか、皆さん。神を杖につけば楽じゃというその、これがもう一事が万事に神様にお縋りしとけば間違いが無いという、心の安らぎを頂いた時に、楽じゃということになる。
 ところが、やはり、問題が問題でありますとですね、やっぱり厳しい、難しいという時に人情が出ます。それで、やはり、そのう、金の杖をついたり竹や木をついたりして、それでは本当の楽にならない。本当のおかげにならない。
 神を杖につけば楽というのは、例えば、ここで黙って治めるといったようなことなんかはね、もう他に頼らないのですよ。ただ、神様だけにお縋りするということですから、素晴らしいことですよね。
 治まるということは、おかげになるということです。黙っておかげにしていけということなんです。
 それを、「これ位のことは、言うがほんなことであろう」とか、「それが本当じゃなかろうか」というように、心配のあまりに、やはりそういうことになるところから、いわゆる、木や竹を杖についたことになり、金の杖をついたことになるのですから、神を杖につき切っていないのです。
 例えば、そこにどういうようなおかげの理というのが、そういう様なことになって来るとあるのか、楽なのかということは、玉水教会の初代の先生のお取次の中に、様々、本当に理にうがったお取次をなさっておられます。
 或る時に、どうにもこうにもお店が回らなくなって、教会に飛び込んでお願いをした。もう今月は、もういよいよ月末に払うことが出来ない。どうか、お繰合わせを願われた。
 そこで、「そのかわりに決して算盤を取るな。金庫を開けて見るな。そして、払わなければならない時だけ金庫を開けよ。」と、言われたそうな。
 そこで、その人は、ただ一生懸命お商売をさせて頂くだけ。売り上げは金庫の中にサッサと入れるだけ。そして、月末になって蓋を開けてみたところが、ちょうど、払わせて頂くのに、もうキッチリおかげを頂いておったと言うのです。
 これなんかはね、もう他に頼らなかったわけです。ただ、神様だけに縋った訳です。 そこで、神様一心に縋っとけばこんなに楽なもんかということが、その体験を与えられたわけです。
 ところが、その翌月、やっぱりその調子でいきよったところが、もう月の二十五日になった。そこで、「後五日位しか無いが、大体今月は払いが出来るじゃろか。とにかく開けて見てみらにゃ安心がいかん」というので、開けてみた。もちろん、足りそうに無かった。もう後五日でどうなるだろうかと心配になって来た。とうとう、月末に払いが出来なかったので、またお願いに来て、実はこうだったと、「とうとう、今月は払いが出来ませんでした」というた時に、先生がおっしゃっておられるのは「お前が、途中で開けて見たから、おかげになっとらん。」と、おっしゃった。
 人間心がそこから入って来た。
 これは、もう本当にそうです。神を杖についとればね、もう親先生の言われることをそのままされるのですけれど、やはり心配のあまり、不安のあまり、二十五日目に開けたことが、言うならば後の五日間でおかげの頂けるのを、おかげが現れていない。 そういうような意味のことをです。合楽ではね、例えば、私は「黙って治める」と。 それはもう、言わにゃおられないことがある。せにゃおられないことがある。けれども、それをしたり言うたり行うたりしたんではならん。もう黙って、それは放任しとくというのではなくて、神様に縋っておかげを頂くのだと。
 もう本当に、黙って治めるということの素晴らしさ。
 もう本当に神様の十二分のお働きを頂いて、蓋を開けた時の神様のおかげの状態というものは大変な微妙なもの、「なる程、こういう苦しい時でも、この手でいけば」。 「神を杖につけば楽じゃ」ということは、そういうことだと思うです。
 だから私は、「しっかり信心の帯をしろ」ということはね、そこだと思うんです。 皆さん、夏期修行で、まあ一生懸命。日々もこうして朝参りをなさって、修行しに出て来られる。
 心行とか修行とかいうことはです。やはり根本は続けるということにあるのです。修行の根本は。ね。
 「ああ、もう行のごとある」と言うでしょう。どんなことがあっても、それを中途半端にしないで続けるということに、修行の値打ちがあるのです。
 ですからね、そういう修行をさせて頂きながらです。なら、そのことだって信心の帯をしっかりとしとかなけれならんけれども、それは信心の修行でしょうが。いよいよ、おかげになるならないというところの、言わば教えを行ずるということではないでしょうが。
 そこで黙って。そりゃあ心配でもあろう。行って見ろうごとあろう。頼んでも来るごとあろう。
 けれども、頼みにも行くな。行ってはならん。金も使うちゃならん。放任しておけ。それこそ「黙って治める」ということは、そういうことなんです。
 ただ、言葉で言わんということだけじゃない、行いの上にもそれを現さない。ただ、神様に一心に、例えば、ただ今申します、心行修行の根本であるところの信心を続けていく修行をさして頂きながら、そういう言わんで済む、蓋を開けんで済む。それは言わにゃおられない時でも、「生神金光大神様」を唱えて言わんで済むその暁に、その後に、見事に治まって来る。
 そりゃあ、もう、合楽の方達はです。これを徹底されると、神を杖についたことになるのですから、「はあー、こんなに楽なことか。」ということが分かるです。
 子供が言う事を聞かん。そこに一口言わにゃおられない。
 そこで、もっともらしい理屈をつけて、いかに和尚の様なことを言うたところでです、なる程それを相手に聞かせたところでです。もう、それだけ神様の働きがにぶっておる、欠けておる。
 任せると言うたら、もう心から根から任せるということにならなければいけん。
 自分の心配のあまりに行動する。一心にお縋りして、例えば、こうした心行が出来ておるのにもかかわらずです、本気で本当の信心の帯が出来ていないから、「ここは言うちゃならん」、「ここは行っちゃならん」、「ここは頼みに行っちゃならん」、「いや、金やら竹やら、杖をついてはいけない」、「ここは一心に、神様一本の杖をつかにゃならん」というふうに、そこを頂き抜いた暁に、「黙って治める」というか、他に頼り縋ることをしないことが、こんなに素晴らしいことかというおかげ。これは、湯川先生の例、これはどこまでも湯川先生の御信心です。理屈は同じことです。
 けど、合楽で私が言うところの信心というのはです、「ただ、成り行きを大事にしてさえしていきゃ良か」。「苦しかろうばってん、御の字をつけて御事柄として受けていきなさい」ということは、とりもなおさず、それは「黙って治めよ」ということなんです。
 そこんところに、信心の帯をしっかりしとかにゃいかんとです。
 信心修行が出来とる。心行も出来とる。けれども、そこんところを右左にしたんではです、いわゆる蓋を開けたんでは、後の五日間でおかげの頂けれるところを、五日間でおかげ頂けなくなって来るのであり、「黙って治める」という何とも言い様のない程しの治まり方になって来ない。
 心配のあまり、人情から言やあそれが当り前のごとあるけれどもです、そのために本当のおかげにならない。
 だからね、何でもない時に任せるのは、誰だって任せられますよ。けどもう、このことは言わにゃおられんちゅうごたる時にです。任せ切って神を杖につくという、そこんところに信心の帯をしなければいけん。ね。
 そこに「ああ、言わんでおって良かった」。「行かんでおって良かった」。「金を杖につかずに良かった」。「木や竹を杖につかんで良かった」。「神を杖について良かった」。ということになるのです。
 そこんところの信心の帯をせにゃいかんのです。ね。
 それは例えば、親子の関係の、親が子を見る場合です。目に余る様なことも有りますよ。こげなことを言いよったら将来が思いやられるという様なことも有りますよ。 これはしかし、信心の無い者の考え方であって、神様にお育てを頂くという腹であるならばです。それこそ言わんで済む、黙って神様にお縋りする。いわゆる心行の方に狂わせずにお縋りさえしていきよればです、もう願っておった以上、思っておった以上の、絶対におかげを頂くです。
 これは、言うなら、合楽の信心ですから、そこんところに一つ信心の帯をして頂きたい。そのことが即、「神を杖につけば楽じゃ」と言う、体験が頂けれるチャンスなんです。
 昨日は壮年部会で、まあ、いろいろ、良いお話を聞かせて貰いました。
 なかに、久富繁雄さんが発表しておられました。聞いておったけど、そんなに詳しく聞いていなかった。
 そして、なるほどなるほどと思わして頂いたことがあるんです。
 今年は、あちらの方には、四反ですか五反か、キャベツを作った。甘ランです。
 ところが、しかも、他の田まで借りて作った。ところが今年は、もう二束三文、それこそトラックを持って行くなら、もうトラック一杯ただで上げますという位、キャベツの値段が安い。しかも、それが四反も五反も作っとる。
 ところがです、隣り、西隣り。西隣りの方は六反から紫蘇葉を作った。紫蘇。
 ところが今年は、その紫蘇が高くてですね。もう恐らく五百万は売り場だろうと皆が言ってるそうです。五百万でもきかんかも知らん、大変な高値だそうです。
 それを考えてみれば考えてみるほど、もうこんなふうにキャベツが安いもんですから、子供が申します。「あんたが、ほんな、そん位のことがお伺いが出来んでどうすんの」と言うてから、息子に言われたという話です。「ね。キャベツの、あんた。ただのごつあるとば五反も作ってから。隣り辺ば見てみらんの。信心なしょっちゃ無かばってんから、それこそ六反も紫蘇ばっかり作られた。さあ、ところが毎日々々、それこそ何十万ずつ入って来よるという計算です。だから五百万は下るまいと言う」。 そう子供に例えば言われてからです、初めて気がつかせて頂くことなんです。
 実は去年、どうした訳か、自分方の屋敷に「どうしてこげん紫蘇が出来たじゃろか」と言う位に紫蘇が出来たそうですね。繁雄さん方の屋敷に。そして、お母さんがそれを全部種にしたんだそうです。ちょうど五反がたある位に種が採れたそうです。
 それを隣りの人が見てござった。「ほう、繁雄さんは、来年は紫蘇ばしなさるばいの」。「繁雄さんかたん真似さえしときゃ」。あそこんとがいつも高いでしょう、野菜が。だから、「あそこん真似さえしときゃ良かけんで」と言うて、全部、紫蘇にさっしゃった。
 そして、自分方は、そういう働きを頂きながらそれをそれと気付かずに、キャべツを植えてしもうたというところにです、本当に親先生が「成り行きを大事にせろ」とあげんおっしゃるのにです。それこそ「自然に溶け込むことによって、自然を生かすことになる」と、あがしこ言うておられるのに。家内がセッセとして言うならば五反分もの、しかも、不思議なことなんです。「もう、こげん屋敷内に紫蘇が出来たことが無い」という位に出来たんです。
 だから、神様が、昨日の御理解のように、太田道灌の山吹の花じゃないけれども、そげんして謎をかけござるとですよ。「さあ、来年は紫蘇を作れよ」と。五反分。
 「はあ、なら、五反、今年は国男、紫蘇ばっかり植えるぞ」。
 「そげん紫蘇ばっかり植えたっちゃどうするの」と言うたっちゃ、「いんにゃ、良か」ち。それこそ、馬鹿と言われても阿呆と言われても、それを実行し貫いていくというところに、信心の帯がなからなきゃいかん。
 「しかし、神様の演出ちゃ、素晴らしかの。繁雄さん」ち言うて話したことですけれども。ね。
 いつもあの例話にお話しますあの豚を飼かれたときには、それは東隣の方にです、当時の横綱と同じ斤数の大きな豚を飼われたんです。すと、御承知のように、繁雄さんところは、もうガリ子のガリ子のもう育てられんちゅうごたるガリ子を育てられたんです。ところが、隣のその横綱と同じという大きな豚はですね、全然子を産まんから食肉にすぐされたと言う。ところが、自分ところのは反対に、一番ガリ子を育ておりながら、それこそ、もう子産みの名人、名人じゃない名豚です。と言う位にたくさん子を産んだ。
 あそこんにきが、神様がね、こげんおかげ頂いておるぞということを分からせるように、わざと隣に大きな大きな豚を飼わせておられるわけですね。そして、おかげを頂いておる実感を味わせて下さるわけです。
 今度の場合は、それが西隣であった。もう本当に、それこそ「形の真似は出来ても心の真似は出来ぬから」と言うけれども、これはそういう意味合いの反対のこと。
 「もう、繁雄さんところの真似をしときゃ、何でも高かけん」と言うてから、隣の人は紫蘇を植えらっしゃった。しかも、六反も植えらっしゃった。ところが、五百万は下るまいという位に上った。
 繁雄さんのところは、その四反か五反のなかに、キャベツばっかり植えらっしゃった。そのキャベツが、もう、ただ同然だと言う。そこでです、「お父さん、あんたが、ちゃんと御神意どんお伺いしてからせんけん、こげなこと。」と言わずにです、ね、私はそのことを昨日話しさせて貰った。
 皆さん御承知のように共励殿に金光様の額が掛かってます。ね。「道は孤ならず」と書いてあります。道は一人でには開けないということなんです。
 本当に、合楽で一番言われているということは、例え馬鹿と言われても阿呆と言われても、しっかり信心の帯をすること。その焦点をどこに置くかというと、もういよいよ他人が馬鹿と言うても、成り行きを大事にしていくということ。
 それは、嫌なことであっても、その嫌なことに「御」の字をつけて「御事柄」として受けていくということ。
 そういう生き方のなかにです、例えば、五反が五反、キャベツばかりを作って、ただ同然であった。働き損のくたびれ儲けであったというのは、信心の無い者の考え方であって、そのことのおかげで、一家を挙げて、いよいよ成り行きを大事にしなければならないもんだということになって、自然に溶け込んでいく様な働きが、一家中の上に上がって来る様になるとです、そこから、言うならば、道が開ける。
 道というのものは、言うならばもう難儀ということ。道は一人で開けない。私どもが見た目では、損である様にあり、又は困ったことである様であり、怖いことである様であり、けども、それが道を開いてくれるのだということなんです。
 例えば、古賀さんなんかが何日前に、いわばお家が全焼になった。
 これは、大変な困ったことなんだ。けども、そのおかげで夫婦の者が日々一生懸命の信心修行が出来る。今度、前にも増して立派な家が出来るでしょうけれども、そういう、一万事万端のお計らいの中にあって、なら、そういう道が開けていきよるですから、その火事のこと自体、その難儀なこと自体にです。お礼を申し上げなければいけないよと言うこと。
 本当に今年は、例えばキャベツを作ったためにです、骨折り損のくたびれ儲けの様にありましたけれども、このことが嫌と言うほど、私ども一家中に分からせて頂いて、これからは成り行きを本当に大切にさせて貰う、御事柄として受けていく、いや、自然の中に溶け込む生き方を、これから身につけるということが出来たならば、その五反のキャベツがただになったという位のことは、もう安いことになって来る。
 そのことのおかげで、こういう自然に溶け込む道をいよいよ身につけた、そこから、言わば、自然を生かす働きというものが頂ける様になったということになるのです。 だから、そのことは、本当はもうお礼申し上げんならん。
 それは、指をくわえて隣が「わあ、今日もまた出しござる。今日また何十万持って帰りござる」といった様なところばかりを見らずに、自分方の今キャベツで大損をしておる、そこんところを、おかげでこういう、道は一人でに開けるのではない、この難儀が道を開いてくれるんだ、本当のことを分からせて頂いたんだということになると、その難儀そのものに本当にお礼が言わなければいけないよ言うて、昨日は壮年部会で話したことです。
 皆さんが持っておるその難儀そのものがです、素晴らしい次の道を開いてくれるのだから、その難儀にお礼を、おかげで道が開けますと言うてお礼申し上げなければいけないよと。
 ですから、言うなら心行をしておるということがです。ね。なら、朝参りも日参もする。昼の御祈念にも、ああして皆さんが一杯になる。それをしかも合楽の方達の場合なんかは、益々続行していく。続けていかれる。これは、ただし、どこまでも心行の根本を身につけていくことであって、それはおかげを頂くということではない。
 言うなら、信心が上達していきよるということなんだ。だから、その上達したその信心をもってです、なら、おかげを受けるということは、今日言う、しっかり信心の帯をせよと言うことはです、例え、そりゃもう本当に、いくら種が五反分も紫蘇葉の種が出来たからと言ったっちゃ、そげん五反も作ると他人が笑うといった様なことやらは問題じゃ無い。自然がこうやって教えて下さるのであるから。今年はお母さんが採っておる種は全部播かせて貰うぞということになるような、ね、そこんところに信心の帯が要るんです。言うなら、信心の根性です。
 他人が笑うかも知れん。「はあ、馬鹿じゃある。信心にのぼせちゃるけん、あげなこつばかりしござる」と言うことになるかも知れん。
 けど、この辺のところに信心の帯をして、しかもそれに心行、言うならば修行がです、倦まずたゆまずの心行修行が出来て、しかも信心の帯を、最前私が申しました、言うならば「黙って治める」という様なところへです、本気で信心の帯をさして頂くということがです、おかげをいよいよ完璧にする、言うならば、神様の働きを十分に頂かせて頂けれる場が生まれて来る。いわゆる信心が上達する。おかげの場をそして作っていくという様な相まったおかげを身につけていかなければいけません。
 私は、例えば、玉水さんのいわゆる算盤を取るな言われる様な御流儀、人間心をそこに少しでも入れたら入れただけ損になるぞというのが玉水さんの生き方であるならばです。合楽の場合は、もう本気で「黙って治める」ということです。
 どんなに目に余る様なことがあっても、そこに言わにゃおられんということがあっても「金光様」で抑えて、目に余る様なことであるならあるだけ、自分が修行さして頂いて、神様に向かっていく。
 そこには、もう絶対、「もうほんに、神様のお働きには恐れ入ってしまう」という、おかげが頂けて来る。
 そういうおかげの体験が頂けた時に、「なるほど、神を杖につけば楽じゃ」ということになるのです。ね。                        どうぞ